父の遺したもの~和道流船橋支部60周年~

2月10日に、実家の近くフローラ西船で行われた、和道流船橋支部の60周年記念パーティーに来賓wとして母と出席してきました。

日本4大空手の一つ、和道流は、初代大塚博紀流祖の興した、「和の道は人の道に通ず」の通り、武士道精神に則った、礼節と格式を重んじる流派です。
http://www.wado-ryu.jp/

和道流空手師範であった父、仁(やすし)は、戦中、学徒動員される寸前で終戦を迎え、日大空手部主将を務める傍ら、昭和22年、船橋に道場を開き、今年で60周年を迎えました。

40周年の時は、小学生だった私も、もう30になったというと、当時かわいがってくれたおじさん達から驚かれましたが、皆変わりなく、元気な様子で今でも空手に関わっているとのこと、懐かしい方々にお会いできてとても嬉しかったです。

早いもので、父が亡くなってから14年の月日が流れ、母もいつの間にか父の享年を追い抜いてしまいました。

私は、父の50歳の時の子供で、小さい頃から、おじいさんと間違われ嫌な思いもしましたが、すでに相当高齢だったにもかかわらず、小学校低学年ぐらいまでは、よくジープで旅行や釣りなどに連れて行ってもらいました。

小柄で痩せていて、胃の手術をしてからはマグロの赤身ぐらいしかまともに食べなかった父ですが、寡黙な中にも、空手のお弟子さんたちとの交わりの時に見せる普段はめったに見せない笑顔が、今でも私の脳裏に焼きついています。

あの時代の人に特有の、敗戦の虚無感から抜け出すためにも、若い頃の父は空手に全身全霊を賭けて打ち込んだようで、鋭い眼光と切れ味抜群の技から、「カミソリの山下」といえば、船橋では知らない人はいないほど相当有名だったらしいです。

祖父から受け継いだ幼稚園は、園長としては行事の挨拶と一時期までしていたバスの運転と、動物の餌ヤリぐらいしか仕事をせず、経営者としてはまともに働いていたことを見たことのない、平日昼は寝てばかりいた父ですが、稽古場として幼稚園を使っていた時期もあり、休みの日は精力的に空手の指導や会合に関わっていました。
ちなみに、全千葉県の空手選手権団体戦の優勝は山下杯となっています。

父は、中学に入ったぐらいのとき、空手の会合の帰りに、家(幼稚園)に帰った直後に、犬小屋に行き、倒れてしまいました。
それをきっかけに急激な衰えをみせ、当時多感な中学生であった私は、サッカー部キャプテンとして色々悩んでいた時期で、反抗したい時に、衰えた父に、もどかしさと情けなさを感じていました。
実は滅多に怒らなかった父でしたが、小さい頃は威厳はあり、怖い存在だったのに、一度そんな中で父が怒った際に、いとも簡単に父に勝ってしまい、無性に悲しくなったことを覚えています。
その後、脳梗塞、肺炎等で闘病生活に入り、思考力も衰え、入退院を繰り返していましたが、母もやや介護疲れが見える中、幼稚園を回していました。
さすがにまだ、すぐ死ぬことはないだろうと思っていた高校2年の運動会が終わった直後の平成5年10月12日、この世を去りました。

家で父の亡骸の夜の番をしている時に、父の好きだった熱燗を作って、生前には酌み交わせなかった酒を捧げたのを覚えています。

葬儀には、空手関係者にも支えていただいて、幼稚園関係はもちろん、国会議員や県会議員、数多くの空手関係者をはじめ、私の高校の同級生のほとんどや小学校時代の同級生にも参列して頂きました。

その当時来ていただいた方には、この場を借りてお礼いたします。本当に、あの時の私にとって、友の一人ひとりの姿にどれだけ励まされたでしょう。

昨日のパーティーでは、2代目宗家大塚博紀最高師範を始め、父の関わった多くの方の挨拶のほとんどが父の話であり、改めて存在の大きさを感じました。

ちなみに、2代目も次男で、長男は喧嘩っ早くて宗家が教えてくれなかったため、後とりになったようです。
私も幼い頃喧嘩っ早くて、教えてもらえませんでしたw

会場では、船橋支部の子供達の演武も行われ、トリには対短刀での組み手もありました。
ちなみに、トリの方は私の靭帯の手術をしていただいた整形外科医の先生でした。

久々の再会を果たした父のお弟子さん方には、近況を報告して、名刺交換もさせてもらいました。

幼稚園も転機を迎える中、こうやって支えていただいた方々にお会いする機会が持てて、母ともども園の今後についても有意義なパーティーでした。


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